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「障害者」にはなったけど。


2015715日。

突然の事故で、私は胸から下が動かせなくなり

それから車いす生活が始まりました。

 

救急室に運び込まれ、服をハサミでヂョキヂョキ切られ

駆けつけてくれた妻と2人で聞いた、医師の言葉。

「脊髄損傷です。ま、重症ですね」

ベッドの上で身体を動かせない私の耳に、妻の声が聞こえてきました。

「しょうがないよ」

2人で泣きました。

 

そして今、あの日のことをもう一度考えました。

たまにじわっ…っと出てくる涙でボヤけて見えなくなる

あの天井を見ながら、私が何を考えていたのか。

 

事故以前の私は、巨大な高級老人ホームの厨房で

スタッフを手ほどきしながら、朝から晩まで忙しく働いていました。

それが突然の事故で、即入院。

「これからどうなるんだろう?」

「仕事は続けられるのか?」

「家族は養っていけるのか?」

「どうやって生活していけばいいのか?」

とにかく不安だらけ。なんとか手だけは動かせたので、

この「脊髄損傷」という怪我をしたらどうすればいいのか?

寝る間も惜しんで、涙を流しながら調べました。

 

結果、まるでわかりませんでした。

 

そうこうしているうちに、事故から9日後。

折れた背骨をくっつけるだけの手術を受けました。

そう、手術で感覚がなくなってしまった神経は、繋げられないのです。

 

ひと月後には退院。

次はリハビリ病院に移り、また入院するわけです。

リハビリ病院では、車いすでの生活の基本を教えてもらいました。

自由に動かせない身体でどうやって生活するのか。

車いすから落ちた場合の対応や、お風呂、トイレ、車の乗り方。

段差の対応や坂道トレーニングなど、さまざまなことを教わりました。

どれもすべて、この身体になるまでは知りようもなかったことばかりでした。

 

そして、車いすでも生活できるように家を改造し、

自分専用の「脚」となる車いすを作って。

怪我をした日から8ヶ月半で、ようやく退院。

ここからが本当に、以前とは違う生活です。

 

まず驚いたのは病院の外、

すなわちこの社会は車いすで動くには大変だということ。

怪我をしてからはずっと病院の中。そこで車いすに乗っていましたが

院内の床はもちろん平らです。ところが世の中は?

道は当たり前に斜めだし、段差はあるし、デコボコです。

 

さて。 この身体になっても、

やっぱり私は自分が働いて、家族を養いたいと思いました。

そして今、私は「わっ嘉」という和食の店を開き、調理の仕事を続けています。

怪我をする以前のように、社会で生活しています。

 

あの時まで、まさかこういう身体になるとは思ってもみませんでした。

怪我のせいで、以前と同じ生活は送れなくなりました。

でも、私は「ありたい自分」を諦めたくありませんでした。

その結果、それまでは思いもよらなかった

新しい人間関係ができたり、 違うやり方が見つかったりしました。

私の周りにいる人達は、どうやら私が1級障害者だと忘れている様子ですけど…(笑)

そして、今の私があるんです。

 

だからそれを、ひとりでも多くの人に伝えたいと思います。

怪我をしても、障害者になっても、諦めなければ。

きっと別の道が見つかります。私がそうであったように。

誰しも自分の道を見つけてほしい。少しでもその手助けになるのなら。

私の経験を役に立ててほしいと思って、この発信をはじめました。