車いす料理人「わっ嘉」オーナー、金子淳一郎の体験記

「立てなくても、たちあがる。」

文:金子淳一郎

交通事故での脊髄損傷により、車いす生活となった金子さん。

「怪我をして、車いす生活となってはじめて知った事、

直面した現実、体験したさまざまな壁。自分の経験を

通して、それを多くの人に知って欲しい。

まさに今病院にいる人や、もしかしたら明日、同じ境遇に

なるかもしれない人にも伝えたいんです。」

その金子さんの思いをgente編集部がお手伝い。

不定期連載企画として発信しています。



No.00 プロローグ

「障害者」にはなったけど。

2015 年 7 月 15 日。

突然の事故で、私は胸から下が動かせなくなり
それから車いす生活がはじまりました。

救急室に運び込まれ、服をハサミでヂョキヂョキ切られ。
駆けつけてくれた妻と 2 人で聞いた、医師の言葉。 
「脊髄損傷です。ま、重症ですね」
ベッドの上で身体を動かせない私の耳に、妻の声が聞こえてきました。
「しょうがないよ」
2 人で泣きました。

そして今、あの日のことをもう一度考えました(続く)


No.01 

調べても、調べても。

怪我をして「二度と歩けません」と言われ。

それはショックというよりも、医師が何を言っているのか私にはわからなかったし、

自分がこれから車いす生活になる、と実感できませんでした。

眠れもしません。しかし手は動かせる。「脊髄損傷とはなんなのか?

一体なんなんだ、この怪我は!とにかく調べ続けました。

 

自分にとって重要なのは「この先、どんな仕事ができるのか」でした。

歩けない、なんてどうでもよかったんです。(続く)


No.02

「車いすの人」から、「金子さん」へ。

2016 年 月。

自宅に戻ってからの生活は、全く新しいものでした。

入院している間は、看護師さんがなんでもやってくれていました。

同じ時期に、同じ怪我で入院している車いすの仲間もいました。

それが退院と同時に、仲間も看護師さんも誰もいなくなると

自分は何もできない、ここまでできないのか”と、はじめて気づかされます。

そしてもうひとつ、車いすユーザーは世の中で珍しい存在なんだ、とも気づかされます。

 

この「あまりにもできない自分」と「人の眼にさらされる感覚」に驚きます。

とにかく孤独、そして寂しさを感じていました。(続く)

 


No.03

一転、逆戻り。

学校へ通う子どもたちの「おはようおじさん」をやるようになりましたが

それが終われば、あとは特に何もない朝の時間。

夏前には車いすテニスを始めました。教えてくれるテニススクールが

たまたま車で15分ぐらいの場所にあって。ただそれも週に1度。

普段は小学校から近かった、駅前にあるコーヒーショップへよってスマホをいじり。

店の外へ出ると、毎朝駅前で人間観察をしているおじいちゃんと仲良くなり。

私が活動している時間帯に出会う人たちとは顔見知りになりましたが、

「車いすのおにいちゃんがいる」という程度でまだこの頃は珍しい存在だったと思います。

そんな中で私が考えていのは、仕事のことです。(続く)

 


No.04

自分の店=社会の一部

2017年2月。公共交通機関を利用しての通勤は大変でしたが、

元上司が誘ってくれた職場でようやく働き始めました。

ですが、数ヶ月すると元上司は異動してしまい、違う方と代わってしまいました。

嫌な予感…私はアルバイト。ほどなくして私と同じ仕事をする人が別部署から

やってくるようになり、そして予想通り「辞めてもらいないか」と。やっぱりね。

予想はしていましたが、やはり悔しかったです。

この時の天気や相手の表情は今でもしっかり覚えてますね。

だけど反面「よーし、やってやるぞ!」とも思いました。続く)

 


【プロフィール:金子淳一郎】
和食ダイニング「わっ嘉」オーナー。和食料理人。
2015年交通事故により脊髄損傷、以後車いす生活となる。
「ずっと続けてきた料理の仕事で、これからも家族を養いたい」との思いで一念発起、

2018年にバリアフリーの和食ダイニング「わっ嘉」をオープン。